最初に津村さんの服に衝撃を受けたのは、デザイナーの友人と西麻布近辺を歩いていたときのことです。交差点にある店の「ショウ・津村」さんとは長年近い位置にいながら、その服やお名前を知ってから実際に会ってお話しするようになるまでに、長い時間がかかってしまいました。直接言葉を交わすようになったのは、じつはここ数年のことです。ウィンドウに、コンクリートのようなものを布地に吹き付けたジャケットが飾られていて、そのあまりにすばらしさに「この服、とてもカッコいいね」と口にしたら、「それ、津村くんの服だよ」と。この頃にデザインされた服は、後に『モーリの色彩空間 part5.小夜子展』という50体のマネキンに世界中のデザイナーが服を着せる展覧会に、提供していただきました。
その後、津村さんは『FINAL HOME』というブランドを立ち上げ、“都市生活者のためのサバイバル”というコンセプトを打ち出すのですが、それは、その頃ちょうど「衣服が紫外線をブロックしたり、いかに身体を守ってくれるか」ということについて考えていた私にとって、まさにこれ、とでもいうべきものでした。衣服というのは、自身を飾り、自分自身の象徴でもあり、そのときどきの社会事象や文化的流行までもが織り込まれるものです。そうしたデコラティヴな部分はファッションの一つの側面ではあるのだけれど、それだけではなく、暖をとったり、風を通したり、陽射しを防いだり、裸体を隠すことも含めて身体をプロテクトする機能が、やはり原点ではないか、と考え始めていたのです。そこに、服が家や部屋の代わりになったり、着ることが生きることに密接に結びつき、自分自身を守ることに繋がる、という『Final Home』が登場した。だから拍手をもって、津村さんの作品を迎えたのです。
非常に気になるデザイナーであった津村さんでしたが、遠くから姿を垣間見る時期がしばらく続きます。三宅一生さんのオフィスに行くと、ガラス越しの部屋で、とても真剣な厳しい表情をされて服づくりに取り組まれてた姿を覚えています。ようやく話をする機会が巡ってきたのは、2000年に入って、ある展示会でのパフォーマンスのために「ペットボトルを使ったドレスを使いたい」とお願いにあがってからのことでした。話せば話すほど、遠くから見ていたときの津村さんの厳しく真剣な表情の裏には、こんなにも面白い面があるのか、ということを発見していくことができました。そしてなによりものごとを大らかに捉えていらっしゃる。だからこそ、『FINAL HOME』を生み出す発想が生まれたのだと思います。 今、世界中で地球環境も含めて人間のあり方を巡る問題が噴出しています。その中にあって、人間が生きていくために、何が必要で、何が大切で、どういうことが無駄なくだらないことで、何がいちばん原点なのか、ということを、津村さんは衣服を通して提示されている。それも移ろいやすいファッションの世界に身を置きながら、10年以上も前からずっと。そうして貫き通してきたことが、今、大事なメッセージとして私たちのところに届いているのだと思います。